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    八重之樱

    评分:
    0.0很差

    分类:日本剧日本2013

    主演:绫濑遥,西岛秀俊,小田切让,长谷川博己,风吹淳,松重丰,长谷川京子,玉山铁二,贯地谷栞,市川实日子,刚力彩芽,谷村美月,水原希子,中村苍,绫野刚,黑木美沙,小泉孝太郎,中村狮童,古川雄辉,胜地凉,斋藤工,池内博之,北村有起哉,冈田义德,六平直政,德重聪,及川光博,村上弘明 

    导演:加藤拓,一木正恵,末永创,清水拓哉,佐佐木善春,中野亮平,长谷知记 

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     剧照

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    剧情介绍

      《八重之樱》讲述了会津藩的炮术师傅山本谦八和佐久夫妻之女新岛八重一生87年间发生的事。新岛八重(绫濑遥 饰)出生于会津藩士家中,在戊辰战争中和五百名女子一起固守会津的鹤城,到明治年间嫁给襄,作为基督教传教士传道,积极从事教育活动,是个顽固的女人,在那个男尊女卑的时代称得上是女中豪杰,被称为是幕末时代的贞德。之后,在侵华战争、日俄战争中,八重又和会津的伙伴一起作为日本第一批护士共赴战场,因此又获得“日本的南丁格尔”这一美名。

     长篇影评

     1 ) 50集!你总要让我说两句吧

    2013年大河剧选了这个主题人物,多半还是因为福岛地震的关系。140多年前的戊辰战争和140多年后的这场地震,对于这个地区的人民来说真是人祸天灾。大灾大难之后,亟需提振人心,选在2013年拍一拍关于会津的故事,想必是有这方面的考虑。
    总体来说50集的篇幅对于这个故事显得过长,NHK依然延续了近年来大河剧剧情拖沓冗长,人物个性单一,角色脸谱化的问题,所以从整整50集的角度来看,这并不是一部可以让人一直心情愉快乐意看下去的作品。
    但这部作品依然有其值得一看的地方。
    自2000年以后NHK的大河剧近代部分,剧情要么是到明治元年前后就结束了(新选组、笃姬、龙马传);要么就是像《坂上之云》这样的非大河精品,从甲午战争开始。
    《八重之樱》从幕末一直把故事说到了明治二十几年,而且最精彩的部分恰好是明治元年往后的戊辰战争会津战记。对于不想看书,想要轻轻松松了解一点鬼子国历史大致脉络的人来说,这部作品恰巧把这一段历史时期的空白给填上了。
    NHK显然也知道重点所在。鹤城战役的cg动画看起来耗费了大部分的预算,奶遥化身复仇女神,提枪上战场的戏是到位了,看的爽就行,不必当真。
    会津藩在幕末的遭遇是很值得人同情的。简而言之,摊上个猪队友已经够倒霉了;何况是摊上了个猪一样的领导。
    明治维新后十年,鬼子国才完成君主立宪;后二十多年才建立国会。维新彻底改变了这个国家的硬件,但软件上、制度上、思想上的改革显然没那么轻松快捷。这也是让鬼子国从此走上帝国主义道路一去不复返,直到被美国爸爸胖揍一顿,阉了扔门房里看门的主要原因吧。

     2 ) 我也说下不可为之事则不可为

    虽然第一集就重复了很多次“不可为之事则不可为”,但这剧的主题应该是要逆这句话而行的,也就是明知不可而为之。

    首先,小时候的八重是一个男孩子气的女孩,明知不可练习铁炮而为之;

    吉田松阴以及后来的新岛襄,都是明知不可偷渡而冒死为之;

    统治着因驻守日本各地而早就财政吃紧的会津藩的松平容保,明知不应担当京都守护职而为之;

    一心要开国的井伊大老,明知不应违逆天皇的意愿而为之;

    长州藩的久坂玄瑞,明知长州在八月十八政变后大势已去,仍然要在蛤御门冒死一搏;

    忠于幕府的松平容保,会津藩士和新选组,明知道会在新政府军前不堪一击,却因为自己所相信的忠义而拼死奋战;

    逃亡虾夷的旧幕府军和其中的西乡赖母,明知道虾夷共和国只是个短暂的梦却要大胆地去尝试;

    维护旧武士精神的西乡隆盛,明知最终是失败却义无反顾地加入了反抗的萨摩士族;

    刚刚从封建国家开始发展了三十年的日本,明知自己和版图辽阔的俄罗斯帝国势力悬殊却要冒险一战;

    作为女子和基督徒的八重,明知自己的行为不被当时的主流社会接受却仍要走自己的路;

    其实幕末和明治时期是一个为了理想能够做一切不可为之事的时代吧。

     3 ) 枪炮与玫瑰

      这个标题似乎就是新岛八重的人生写照,其人生充满了传奇,要不是她的故事历史厚重感太多以及不符合日本传统女性的特质,完成可以拍成晨间剧,而不是大河剧,她作为女性的作用远远大于《阿浅来了》和《亚久里》中的主角。

      八重出身武士家庭,不过其家以火枪传家,这在传统日本武士看法中是比较“低等”的,但也正是枪才使得八重能够“扬名一时”,在剧中的重头戏会津之战中,她使用后填弹式步枪可以说大杀四方,甚至担任了指挥,这不说在轻视女性的日本就是在世界上也是少见的。当然要不是步枪她也不可能如此英武。

      而会津之战却很容易让人联想起日本的二战,我毫不怀疑日本在拍摄时就是如此思维,剧中总是强调会津是没有任何过错的,然后大力渲染会津的武士精神,不管是战至最后还是亲眷们自杀,无不显示着日本的武士道精神。不过对于旁观者来说却是很让人“恶心”,如果说会津当时还不知道自己是逆时代而动,那经历过二战的日本人却着力渲染这种精神却是丑恶的,甚至可以说是犯罪的,一批批无辜者在在所谓的大义下毫无意义地死去,如果这就是武士道精神,那这种精神还是灭亡的好。

      而这种枪炮人生只是八重的前半段,在战争结束后,她在哥哥的指引下接触到新知识,特别是基督教,并与日本最早的传教士新岛襄结婚。而由于性格以及丈夫接受的是西洋绅士教育,所以她显得处处高丈夫一等。我认为正是这点和战争经历使她的故事无法成为晨间剧的题材。

      而之所以说她的后半生是玫瑰,是其在战争结束后,投身于教育事业以及红十字事业,也算是崭新的人生了,而其事业也正好符合当时日本的时代新发展,所以更显得可贵,从这点看她能够成为首位获受勋的平民女性也是名至实归的。

     4 ) 【转】•幕末诸藩的站队及结局

    当时日本的各藩基本可以分成三种站队,站在九州与中国地区的藩基本都是尊王倒幕为主,像萨长土肥各强藩那就是急先锋了。还有细川的熊本藩,池田的冈山藩,鸟取藩等西国强藩后期也抛弃江户幕府,选择大政奉还了。

    而中部近畿地区的藩以观望为多,典型的就是站队狂魔金泽藩的前田氏。百万石的大大名一开始支持幕府,鸟羽伏见之后降服于新政府。还有一个典型就是津藩的藤堂氏,鸟羽伏见和幕府军上了战场,一看形势不对立刻临阵倒戈。当时战场上幕府方的士兵为此非常愤慨,大骂他们是受了初代藩主的熏陶(その行い、藩祖(高虎)に似たり‘)。 而关东包括东北各藩则是支持幕府的较多。但由于鸟羽伏见战役时德川家已经成为朝敌,所以绝大多数支持幕府的藩主也都选择明哲保身,表示恭顺。后来很快江户无血开城,德川家降服。所以这时候绝大多数关东诸藩所想的只是如何保全自己。包括会津藩,当时也向新政府提交了降服的书状,但由于双方在条款上不能达成一致。同时由于会津藩在藩主松平容保担任京都守护职时血腥镇压过倒幕派,在禁门之变中会津还击败过长州藩,所以,新政府在萨长主导下,有意杀鸡儆猴,惩罚会津而震慑别的佐幕或亲近幕府诸藩。此外,由于之前在上野的宇都宫城之战中,残余的幕府军实力尚存,大鸟圭介甚至一度逆袭攻下了政府军掌控的宇都宫城,几乎改变战争结果。因此,为了彻底粉碎本州岛上的佐幕诸藩的作战能力,作为雄藩之一,同时又是佐幕急先锋的会津藩(其实还有桑名藩)势必要被惩处。

    由于东北诸藩在之前的战事中多采取支持幕府的立场,此刻看到做为奥州门户的会津面临覆灭的可能,不免有唇亡齿寒之感。于是联名上书请求宽大会津。不过因为一些意外,当时新政府在奥州设置的镇守府总督九条道孝被扣押,参谋世良修藏被仙台藩的藩士刺杀,双方和睦的可能破灭。于是作为旧幕府方的奥羽越列藩推出北白川宫能久王为东武天皇,在白河小峰城会战新政府军,可惜溃败,作为主力的会津士兵败退回会津笼城,一路遭到新政府追击,随着会津藩支藩猪苗代藩被攻陷,会津本城若松城也不得不进行笼城。这段故事就是大家都知道的会津战争,被称为整个壬申义战争中最激烈的战事。会津落城后,奥羽越列藩同盟中许多藩选择退盟,甚至一些藩倒戈(佐竹氏秋田藩)。剩下的像伊达氏仙台藩也被迫降服。列藩同盟于是就解散了。日本本岛战事结束。不过仍有一些支持旧幕府的武士,伙同一些不满新政府的各藩武士,选择北上北海道。在旧幕府大将榎本武扬带领下建立了短命的虾夷共和国。不过这已经是德川家流亡武士团的立场,不能代表幕府各藩的立场了。由于东北诸藩在之前的战事中多采取支持幕府的立场,此刻看到做为奥州门户的会津面临覆灭的可能,不免有唇亡齿寒之感。于是联名上书请求宽大会津。不过因为一些意外,当时新政府在奥州设置的镇守府总督九条道孝被扣押,参谋世良修藏被仙台藩的藩士刺杀,双方和睦的可能破灭。于是作为旧幕府方的奥羽越列藩推出北白川宫能久王(后来病死在台湾那位)为东武天皇,在白河小峰城会战新政府军,可惜溃败,作为主力的会津士兵败退回会津笼城,一路遭到新政府追击,随着会津藩支藩猪苗代藩被攻陷,会津本城若松城也不得不进行笼城。

    这段故事就是大家都知道的会津战争,被称为整个壬申义战争中最激烈的战事。会津落城后,奥羽越列藩同盟中许多藩选择退盟,甚至一些藩倒戈(佐竹氏秋田藩)。剩下的像伊达氏仙台藩也被迫降服。列藩同盟于是就解散了。日本本岛战事结束。不过仍有一些支持旧幕府的武士,伙同一些不满新政府的各藩武士,选择北上北海道。在旧幕府大将榎本武扬带领下建立了短命的虾夷共和国。不过这已经是德川家流亡武士团的立场,不能代表幕府各藩的立场了。

     5 ) 从幕末走向明治

    第一次听说这部剧是三年前在台湾,尽管当时台湾同学极力推荐,听完后我只是上网大致浏览了剧情,并没有太在意。

    再次想起这部剧是在去年12月。硕士论文聚焦于一个日文文本在中国的传播,由此逐渐接触日本近代史,发现自己对这个国家的了解真是太少太少——如果套用一位老师的话,大概是无知到令人发指吧。国内关于日本的历史书当然不少,但总觉得少了点什么,而且似乎有些乏味。原版日文书不容易得到,而且对我来说还是有些晦涩,想着能否通过纪录片、历史剧之类的对时代背景有一番大致的了解。也是在这个时候,想起了这部剧。其实我已经完全忘记了剧情,只记得是绫濑遥主演,想着应当不至于太差吧。

    然而,初看几集,这部剧似乎并不吸引我。这是我第一次接触日本历史剧,不知道这是不是历史剧的通病。加上放假回家的缘故,看到第四或第五集左右,我就处于弃剧状态了。

    在家待了两个月后,在剧荒的情况下再次拾起了这部剧。(而且,我不喜欢半途而废。)一天一集,慢慢地,随着那些熟悉的历史名字一个个出现,我开始跟上了这部剧的节奏。才知道,原来日本是这样走向近代的。“从幕末到明治”,这简简单单的六个字背后可是一代人的浴血奋战啊。

    看到有评论说剧情过于冗长,五十集似嫌多。然而在我看来,这段历史承载了日本的过去,又充满了对未来的期待,五十集的篇幅已经是几近浓缩了吧。要把这段历史讲好且呈现在荧幕上太难了。好在本剧选取了八重这个角色,以她的个人经历为线索,借由她身边的人与事,将日本的近代化历程娓娓道出。

    个人认为,这是一部不错的剧,对于想要了解这段历史的人尤其值得一看。当然,即使是艺术,免不了高于生活。比如八重为保卫会津中持枪走上战场,剧中展现的飒爽英姿,多少有些夸张成分吧。尽管如此,剧中所展现的,忠与不忠的抉择,近乎极端的武士道精神,剧变下的阵痛与挣扎,成长的勇气,对生与死的思考,对战争的反思,都值得细细品味。

    (未完待续……)

     6 ) 八重の桜

    八重の桜』(やえのさくら)は、2013年1月6日から12月15日まで放送されたNHK大河ドラマ第52作である。2014年度国際エミー賞テレビドラマ部門ノミネート作品[2]

    目次

    企画・製作

    当初はまったく別の作品を計画していたものの、2011年3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生したことを受け、NHK内部で東北復興を支援する内容にすべきだとの意見が上がり方針を転換。福島県会津出身で、同志社を創設した新島襄の妻となった新島八重の生涯を描いた作品となることが公式発表以前にマスメディアを通して明らかにされていた[3]

    同年6月22日に制作発表が行われた。この発表では同時に主演俳優も発表され、大河ドラマ初出演となる綾瀬はるかが起用されることになった[4]

    クランクインは2012年9月9日。舞台となる福島県会津地方でのロケーション撮影から開始され、9月13日には鶴ヶ城において出演者による記者会見が行われた。

    大河ドラマにおいて幕末期を描いた作品は、1990年代以降も幾つか制作されていたが、昭和期まで存命であった実在人物が主人公となるのは1985年の『春の波涛』以来28年ぶりとなる。

    ドラマ本編は明治30年代の描写で完結しているが、最終話の紀行のコーナーでは晩年の八重本人の映像が使用された。大河ドラマの主人公となった実在人物の生前の映像が使用されたのは、本作が初めてである。

    作中で会津弁を忠実に再現した結果、会津地方の人々からも「老人が使っている会津弁で聞き取りにくい」との指摘があり[5]、2013年3月10日放送分から、総合テレビジョンのデータ放送に、会津弁や歴史用語の意味を解説する機能が追加された[6]

    全50回の平均視聴率は14.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)で、当時『平清盛』『花の乱』『竜馬がゆく』に続く歴代ワースト4位の数字だった。

    あらすじ

    この節の加筆が望まれています。

    会津編

    1865年、アメリカでは南北戦争が終結。不要となった武器の多くが日本へもたらされることとなる。そして明治元年(1868年)、それらを装備した新政府軍の攻撃にさらされる会津若松城の中に最新式のスペンサー銃を手に抗戦する一人の女性がいた。山本八重、後の新島八重である。

    時は遡って幕末、諸外国からの開国要求が高まり、日本国内は開国派、攘夷派などの思想の違いによる分断が起きようとしていた。この時代の転換期に、会津藩の砲術師範の家に生を受けた八重は、藩軍備の洋式化を目指す兄・覚馬や、その友である洋学者・川崎尚之助らの側で、会津そして日本の変化を感じていた。

    幕末の争乱により治安が悪化する京都警護のため藩主・松平容保京都守護職に指命され、徳川将軍家への忠義を尽くさんと、会津は藩を挙げて倒幕派追討への動きに加わることとなる。それは後にいわれる「会津の悲劇」の序章であった。

    京都編

    1868年9月22日会津戦争終結。

    戊辰戦争に敗れた会津藩は「逆賊」と世間に罵られる中、八重と会津の仲間たちは新たな生き方を模索。家名再興を許された旧会津藩は、極寒の地に斗南藩をたて、飢餓や財政に苦しみながらも山川浩を中心に果敢に生きて行く。八重とその家族は兄・覚馬の生存を知り、覚馬を頼って京都へ渡り、そこで鉄砲に変わる「学問」という、新たな生きがいを得る。

    幕末の動乱で尚之助との別れを体験した八重だが、アメリカ合衆国から帰国した新島襄と出会い、心を開き結婚。キリスト教に根ざした学校を作ろうとするも、偏見を持つ人々の反発に遭い葛藤する襄を支えたのが「ならぬことはならぬ」の精神を持った八重。従来の会津の教えを「良いものは良い」と発想を転換、肯定的に捉えて邁進し同志社英学校の開校にもこぎつける。その後も、二人の夢は同志社大学設立へと向かうのである。

    「ジョー」「八重さん」と呼び合うこの風変わりな夫婦が、明治という新たな時代を駆け抜けて行く。

    登場人物

    主人公とその一族

    主人公とその伴侶

    新島八重(にいじま やえ)(山本八重 → 川崎八重 → 山本八重 → 新島八重)演:綾瀬はるか(幼少期:鈴木梨央[注釈 1][7])主人公。会津藩砲術師範・山本家の長女。米俵を軽く持ち上げるほどの腕力の持ち主で、性格は自由奔放かつ男勝り。幼い頃から砲術に興味があり、父・権八に反対されながらも、兄・覚馬から銃の手ほどきを受け技能を伸ばし、新式銃の開発にも携わるようになる。また、模擬戦の追鳥狩を木に登って見学している最中に草履を落としてしまい、家老の西郷頼母に厳しく叱責された。覚馬の勧めもあり、川崎尚之助に嫁ぐ。鶴ヶ城籠城戦では男装して入城し、覚馬から贈られたスペンサー銃で戦い、活躍した。会津藩降伏後、生き残った藩士達と共に猪苗代での謹慎を望むが果たせず、米沢の内藤家に身を寄せ、この間に尚之助とは離縁。覚馬に呼び寄せられ、家族とともに京都に移住し、女紅場で教師として働くこととなる。その後、東京で尚之助と再会し、復縁を望むが拒まれ、京都で待っていると告げ東京を後にしたが、尚之助は間もなく亡くなる。失意の中、新島襄と出会い婚約するが、クリスチャンの襄と婚約したことで女紅場を解雇された。襄と再婚後は彼の興した同志社の経営にも関わり、彼の最期も看取る。襄の死後、覚馬の勧めで篤志看護婦人会に入会。日清戦争では看護婦として負傷者の看病に当たり、終戦後にその活躍が評価され民間の女性初の受勲者となる。川崎尚之助(かわさき しょうのすけ)演:長谷川博己洋学者。元出石藩士。江戸の象山塾で山本覚馬と知り合い、共に学ぶ。覚馬の人柄に惚れ込み、彼が設立する蘭学所に誘われて会津を訪れ、そのまま山本家の居候となって八重、覚馬と共に新式銃の開発を行う。藩への仕官が叶えば兵制改革がより一層進むと考えた覚馬から八重との縁談を勧められ、八重と夫婦となる。その後、働きが認められて会津藩への仕官が叶い、会津が戦火に巻き込まれる可能性を予測し、覚馬の計画を基に防衛策を練る。会津藩が着手した軍制の洋式化を中心となって進め、梶原らと共に奥羽諸藩との交渉にも参加した。会津戦争では大砲隊を率いて戦い、八重と共に奮戦した。降伏後、猪苗代の謹慎所へ同行しようとした八重を逃がし、自らは謹慎所送りとなったのち斗南に渡った。斗南藩の窮乏を掬うため米取引を行ったが、詐欺に遭って告訴され藩の指示を疑う警察に、全て自分の一存によるものと証言して責任を一身に背負って裁判を戦うこととなり、八重には事情を話せぬまま離縁。その後、東京で八重と再会し、夫婦でなくていいから側にいたいという八重の申し出に対し、裁判が終わったら必ず京都に行くと約束するが、病の悪化によって死去。八重の事を最期まで案じていた。生前、会津戦争の記録を綴った『會津戦記』をしたためており、後に山川兄弟がこれを基に『京都守護職始末』を編纂した。新島襄(にいじま じょう)(新島七五三太 → 新島襄)演:オダギリジョー(少年期:小林海人安中藩士・新島民治の子。前名は七五三太(しめた)。アメリカに密航し、同地で学んだキリスト教の精神で内戦に傷ついた日本の復興を助けたいと願う。帰国後、木戸孝允の紹介で京都にキリスト教を教える学校の設立を目指すが、仏教界の反発や府知事の槇村正直の非協力的な態度に苦労する。槇村の紹介で山本家に居候することになり、そこで八重と知り合う。襄は古い価値観に縛られない八重の奔放さに惹かれ、尚之助の死後、失意の内にあった八重を励ます中で絆が生まれ、結婚する。山本覚馬や大垣屋の協力で念願の学校・同志社を設立し、校長に就任。教職員や生徒との対立、私学を規制しようとする政府の圧力に苦心しながら、八重との二人三脚で乗り越えていく。同志社に大学を設立するための資金集めに奔走する中で、心臓の病が悪化し、最期は八重に看取られながら「グッバイ、また会いましょう。」と告げ、息を引き取った。

    山本家とその関係者

    山本覚馬(やまもと かくま)演:西島秀俊八重の兄。会津藩士。文武両道に秀で、八重の熱意を認めて彼女に鉄砲の手解きをする。藩命で江戸に留学して佐久間象山の門下で学び、藩軍備の洋式化を目指すが、藩の保守的な気風に阻まれ、重役を批判して禁足処分を受けるが、西郷頼母の尽力で処分を解かれ、兵制改革の担当者に登用される。藩主・松平容保と共に上洛し京都の治安維持に当たり、禁門の変でも活躍するが、眼に異常を感じ、白そこひと診断され、失明宣告を受ける。鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、戦を止めるべく大坂に赴こうとするが、途中で薩摩兵に捕えられ幽閉される。獄中では会津を救うための嘆願を続ける一方、政治意見書『管見』を作成した。獄中にある間に完全に失明し、また薩摩兵に暴行された後遺症で歩行困難な身となった。戊辰戦争後、『管見』を読んだ岩倉具視の推薦で京都府に顧問として出仕、京都の復興と文明開化の中心人物となり、襄の学校設立にも協力するが、知事の槇村と対立して解雇される。後に府会議員に当選し、初代議長に就任。議会で槇村の横暴に立ち向かい、最後は槇村と刺し違える形で府議を辞職した。その後は、商工会議所会長に就任し、引き続き京都の発展に尽くした。襄の死後、同志社の臨時総長を務めた。卒業式では日本が戦争に向かっていることを憂えて聖書の一節を通し「二度と再び戦うことを学ばない」ことを祝辞として卒業生に送った。その後は小崎弘道に職を譲るが、間もなく八重と佐久に看取られながら、その生涯を閉じた。山本佐久(やまもと さく)演:風吹ジュン八重の母。八重が砲術を習いたがることに対し、女子が家事をやることの大切さを教え、鉄砲は女子がする役目ではないと諭した。家族と共に鶴ヶ城の籠城戦を戦い抜き、覚馬の生存を知ると八重・みねと共に京都へ渡り、同志社設立後は寮監を務めた。日清戦争の後、眠るようにして亡くなった。山本権八(やまもと ごんぱち)演:松重豊八重の父。会津藩砲術師範。八重の砲術の才能を認めながらも女子が砲術を学んでも活かす場が無いことから、彼女が砲術を学ぶことには頑なに反対した。しかし、八重が隠れて鉄砲の勉強をしているのを半ば黙認していた。会津城下に新政府軍が迫ると、玄武隊の一人として戦う。八重が戦場で活躍する様子を見て「八重が鉄砲を学んだことは間違いではなかったかもしんねえ」と感じるようになり、佐久にもそれを漏らしていた。その後、補給路確保のために編成された決死隊を率いて米を城に運ぶことには成功するが、自身はその途上で銃撃を受けて瀕死の状態になり、八重に「にしはわしの誇りだ。皆を守れ」と伝え、家族に看取られながら息を引き取った。樋口うら(ひぐち うら)(山本うら → 樋口うら)演:長谷川京子覚馬の最初の妻。会津藩勘定方・樋口家の娘。林権助の仲人で覚馬に嫁ぐ。従順で控えめな性格だが気が強く、自由奔放な八重とは違う生き方をしながらも、家族としての絆を紡いでいた。攘夷派の浪人に襲われた覚馬を妊娠中に庇ったことがもとで第一子を流産してしまうが、その後みねを授かる。戊辰戦争後に覚馬の生存を知るが、同時に時栄と子供の存在を知って「女の意地がある」と離縁を決意し、八重にみねを託して会津に戻った。15年後、帰郷した八重、みねと再会。みねから一緒に住もうと訴えられるが、会津に生きるとして拒否した。山本時栄(やまもと ときえ)(小田時栄 → 山本時栄)演:谷村美月覚馬の後妻。旧姓は小田(おだ)覚馬の目を心配した大垣屋が彼に無断で遣わした女中。当初は覚馬に断られるが、不逞浪人に銃を向ける度胸を気に入られ、彼の身の回りの世話をすることになる。のちに男女の仲となって娘・久栄を授かり、明治に入ってから正式に夫婦となる。同居することになった八重たちとも打ち解け、妻として山本家を守るが、内心では覚馬の心に残る先妻・うらへの嫉妬を抱え、八重や佐久そして娘たちが外で活躍する中で疎外感を感じていた。山本家に書生としてやって来た青木栄二郎から思いを寄せられ、不義の噂が立ったことで同志社の経営にも支障を来す事態となる。覚馬は不問に付そうとしたが、八重に問い詰められた時栄は暗に不義の事実を認めたため、離縁を言い渡され、八重に追い出される形で山本家を後にした。伊勢みね(いせ みね)(山本みね → 伊勢みね)演:三根梓(少女期: 池田沙弥花 / 幼少期:豊嶋花 / 幼児期:千葉理紗子[8] / 乳児期:中山香楽(第6回) / 谷川夢歩(第7回)[8])覚馬とうらの娘。父・覚馬が京都に出仕中で不在の中、母・うらに厳しく育てられる。戊辰戦争後に覚馬の生存を知ると、家族とともに京都へ向かうが、うらとは別れることとなり彼女が持っていた櫛を託されて涙ながらに別れた。京都では継母である時栄に馴染むことができないまま新生活を送ることとなるが、次第に時栄とも打ち解けていく。成長後、同志社女学校に入学し、英学校に転校してきた伊勢時雄に一目ぼれする。その後、時雄から求婚され、覚馬が喜ぶ中、みねは自分がうらのように見捨てられたと感じ一度は拒絶するが、八重の説得の末に求婚を受け入れ、時雄の妻となり共に今治に向かった。時雄が同志社学校の教師になったことで京都に戻り長男・平馬を出産するが、産後に容体が悪化し、そのまま息を引き取った。死の直前、時栄の件と平馬が生まれたことでつらい運命を背負った異母妹の久栄を心配しており、久栄のことを八重に託していた。山本三郎(やまもと さぶろう)演:工藤阿須加(少年期:村山謙太 / 幼年期:山崎智史)八重の弟。兵制改革を訴える兄や、新式銃の開発に苦心する姉たちの力になりたいと権平に内緒で佐川官兵衛の部隊(別撰組)への入隊を志願し、佐川もその忠義の志は認めていたが、若年を理由に断られている。その後、江戸に留学する。鳥羽・伏見の戦いには志願して参加、果敢に敵陣に攻め入ろうとするが、銃撃を受け死亡する。遺髪と軍服は尚之助によって山本家に届けられ、八重はこの軍服を着て鶴ヶ城に入城した。山本久栄(やまもと ひさえ)演:門脇麦(少女期:今瀬葵 / 幼少期:太田しずく)覚馬と時栄の娘。時栄が出て行ったことで、心を閉ざしてしまう。その後、徳冨健次郎と恋に落ち、共に東京に駆け落ちしようとしたが、健次郎が一人で出奔したため未遂に終る。佐久が亡くなる前後に病死した。徳造(とくぞう)演:戸田昌宏山本家に仕える下男。籠城戦前に暇をもらって山本家を去った後、お吉と結婚した。その後、伝道旅行で会津を訪れた八重・みねらと再会を果たした。お吉(おきち)演:山野海山本家に仕える下女。籠城戦前に暇をもらい山本家を去った後、徳造と結婚した。その後、伝道旅行で会津を訪れた八重・みねと再会を果たした。

    新島家

    新島民治(にいじま たみじ)演:清水綋治襄の父。元安中藩士。襄を前名の「七五三太」と呼ぶ。突飛な行動をとる襄を半ば呆れながら見守り、そんな襄と結婚してくれた八重とも良好な関係を築く。みねの死後、息を引き取った。新島登美(にいじま とみ)演:香野百合子襄の母。日清戦争後、佐久が亡くなるのと前後して病死した。

    会津の人々

    会津松平家

    松平容保(まつだいら かたもり)演:綾野剛(幼少時:山下哲平)会津藩第9代藩主。幼名は銈之丞(けいのすけ)、官名は肥後守(ひごのかみ)。会津中将とも呼ばれる。美濃国高須藩に生まれ、12歳で会津藩主・松平容敬の養子となり、その跡を継ぐ。養子だからこそ会津のために尽くしたいという思いが強いが、皮肉にもそれが後に言われる「会津の悲劇」を招くことになる。幕末情勢の混乱の中、幕府より京都守護職の就任要請を受け、当初は拒むも、藩祖・保科正之より伝わる会津家訓の精神[9]を貫かんと、家臣らの強い反対を押し切って就任の決断を下す。着任当初は言路洞開路線をとって尊攘派との融和を図るが、彼らの真意が倒幕にある事を知ると一転して厳罰主義を採り、藩士や新選組を使い取り締まった。しかし、却って尊攘派の恨みを受け、また都で会津の武名が上がったことから幕府からも疑いの目を向けられる。藩の疲弊を理由として帰国を望むが叶わず、孝明天皇の崩御後は、王政復古や鳥羽・伏見の戦いを経て朝敵の汚名を受け、失意のうちに会津に帰国する。新政府には武備恭順の態度を示す一方で、万一に備えて軍制改革を行う。白河口が破られ、会津城下での戦いが必至となると会津は会津の手で守ると重臣らを奮い立たせたが、会津勢は苦戦を強いられ、苦渋の決断で降伏した。この直前、萱野権兵衛への伝令役という形で西郷頼母を城から追い出すが、これは彼に生きて会津の汚名をすすいで欲しいとの願いから下した決断である。そして彼の背中を見届けながら「生きよ…、頼母…」と無事を願っていた。降伏後は謹慎し、会津戦争の戦没者の冥福を祈る日々を過す。のちに高木時尾と藤田五郎の結婚の仲人を元家臣の佐川とともに務めたが病に倒れ、会津の名誉回復を山川兄弟に託して息を引き取った。松平照(まつだいら てる)(照姫 → 松平照)演:稲森いずみ容保の義姉。文武両道に優れており、その人柄は八重たち会津の女性たちに深く慕われている。互いに他家(照姫自身は飯野藩保科家)からの養子であるために容保とは血の繋がりは無く、それ故か彼に幼い頃から想いを寄せていた。一度は他家に嫁ぐが、離縁されて会津松平家に戻り、容保夫妻と江戸上屋敷に住まうが、後に会津に移る。鶴ヶ城篭城戦では城内の女性たちをまとめ、降服の際には自ら白旗に「降参」と書き入れた。戊辰戦争後は実家・保科家に預けられていたが病に倒れ、容保に看取られて息を引き取った。松平容敬(まつだいら かたたか)演:中村梅之助会津藩第8代藩主。照姫、容保の養父。容保に対し、「徳川将軍家への忠義を第一に掲げる会津家訓[9]に沿って生きるように」と説いた。しかし、これが図らずも、後に容保を始めとした会津藩全体を最悪の凶事へと導く事を運命づけてしまう。敏姫(としひめ)演:中西美帆容保の正室。松平容敬の実娘で、照姫と容保にとっては義妹。疱瘡を患い、照姫に「姉として容保を支えて欲しい」と遺言して世を去る。松平喜徳(まつだいら のぶのり)演:嶋田龍会津松平家第10代当主。容保の養嗣子で徳川慶喜の実弟。幼名は余九麿(よくまろ)。

    西郷家

    西郷頼母(さいごう たのも)演:西田敏行会津藩家老。会津に赴いて間もない容保に近くで仕え、会津藩の藩風や仕来りなどを教育した。幼少期の八重とは模擬戦である追鳥狩の際に草履を落とされ妨害された際にその張本人が八重であると知った際に初対面し激怒した。藩の兵制改革にいち早く賛同し、覚馬を取り立てた。幕府の京都守護職要請に際しては、容保に要請拒否を強く求め、守護職就任後も速やかな辞職を求め続けたことで容保の不興を買って家老職を解かれ、謹慎を命じられる。鳥羽・伏見での敗戦後に家老に復職し、新政府への恭順を主張した。会津戦争が勃発すると白河方面の総督を任されるが、寡勢の新政府軍に敗北する。その後、鶴ヶ城に帰参し再度の恭順を勧めたが、周りの重臣が徹底抗戦を主張している中で孤立し、白河総督の任を解かれた。籠城戦となると登城するが、次第に会津が絶望的な状況になると会津存続を願って改めて恭順を勧めるが、徹底抗戦を主張する多くの重臣に非難され、容保からも意見を聞き入れられることはなく、萱野権兵衛への伝令役という形で実質的に城を追われた。役目を終えると会津を離れ、函館戦争に身を投じるが、それも敗北に終わると生きて会津を踏みつぶしていった者達が作る世を見届けると決意する。維新後、会津を訪れた八重と再会し、これまで生きてきた経緯を語り、会津戦争から立ち上がり勲章をもらった八重を一度散っても春になれば再び花を咲かせる桜に例え、会津の希望であることを示唆した。西郷千恵(さいごう ちえ)演:宮崎美子頼母の妻。城下に新政府軍が襲来すると、会津の無実を訴え、新政府軍の非道な力には屈しないことを死を持って示すのが西郷家の役目と殉死の大儀を家族に諭したのち、一家と共に自刃して果てた。西郷眉寿(さいごう みす)演:中島亜梨沙頼母の妹。西郷由布(さいごう ゆう)演:玄里頼母の妹。西郷細布(さいごう たえ)演:田中明頼母の長女。母や一族と共に自刃するが、死に切れずに瀕死の状態でいたところを板垣退助に発見され、彼女の願いを容れた板垣によって止めを刺される。西郷瀑布(さいごう たき)演:豊田留妃頼母の次女。西郷律(さいごう りつ)演:久松夕子頼母の母。西郷吉十郎(さいごう きちじゅうろう)演:関ファイト頼母の長男。母・千恵から父・頼母と共に働くよう言われたため、一族の自刃からは逃れた。西郷常磐(さいごう とわ)演:田嶋絆頼母の四女。

    山川家

    山川浩(やまかわ ひろし)(山川与七郎 → 山川大蔵 → 山川浩)演:玉山鉄二(幼少期:里村洋)山川家の長男。幼名は与七郎(よしちろう)、長じてからは大蔵(おおくら)を称する。八重とは幼馴染で、密かに想いを寄せていた。父親を早くに亡くし、若くして山川家の当主となる。京都へ上り、容保の側近として活躍して奏者番に昇進。さらに幕府の外国奉行の供として欧州を回り見聞を広めて帰国する。鳥羽・伏見の戦いでは洋装して前線で指揮を執り、瀕死の重傷を負った三郎の最期を看取った。会津戦争では日光口の守備を任され、板垣退助率いる新政府軍の進軍を阻み、その後は佐川官兵衛と共に家老に進んだ。新政府軍に包囲されている鶴ヶ城に帰城する際、行軍の列の先頭に彼岸獅子を立てる奇策で入城に成功する。会津戦争後は、他の藩士と共に猪苗代の謹慎所送りとなる。戊辰戦争後は容保の助命嘆願や家名再興に力を尽くし、家名再興が許されると斗南藩の大参事に就任するが、藩は財政難に苦しめられ、藩のために行動した尚之助の裁判でも、苦渋の決断で藩の関与を一切否定した。廃藩置県後、陸軍に仕官して佐賀の乱の鎮圧にあたり、その際の負傷で左腕が不自由となる。西南戦争にも出征し、西郷軍に囲まれた熊本城に入城するという功績を挙げた。一方で自宅に多くの会津出身者を書生として抱え、彼らの育成に心を砕く。また容保から孝明天皇の「御宸翰と御製」を託され、会津の雪免を目指して『京都守護職始末』の編纂に着手するが、完成を健次郎に託し息を引き取った。山川二葉(やまかわ ふたば)(山川二葉 → 梶原二葉 → 山川二葉)演:市川実日子(幼少期:愛川あおい[10])浩の姉。梶原平馬に嫁ぎ、夫に従って京都に滞在し、一子・寅千代を儲ける。会津藩が京都を撤退すると、江戸を経て会津に帰国する。戊辰戦争後、平馬と離縁し家族とともに東京に住まいを移した。多くの書生を抱え、火の車の山川家の家計を遣り繰りしている。山川健次郎(やまかわ けんじろう)演:勝地涼浩の弟。学問には秀でていたが、砲術等や武芸は不得手で「青瓢箪」と呼ばれていた。会津戦争に八重が率いる鉄砲隊のひとりとして参加し、八重を補佐して籠城戦を戦い抜いた。戊辰戦争後は猪苗代の謹慎所に送られるが、梶原平馬の計らいにより、アメリカに留学。イェール大学で物理を学び、帰国後は東京開成学校(後の東京帝国大学)に採用され、教授となる。科学者として同志社のハリス理化学館の建設にも関わった。浩から『京都守護職始末』の完成を託され、刊行寸前まで漕ぎ着けることができたが、日露開戦を前に国内の混乱を恐れた政府の意を受けた大山巌の説得に折れて刊行を思い止まるが、「永久に封印はしない」と釘を刺した。大山捨松(おおやま すてまつ)(山川咲 → 山川捨松 → 大山捨松)演:水原希子(乳児期:大谷美玲[11] / 幼少期:ほの花 7 ) 畫面是沒的說的

    会津編[編集]
    1865年、アメリカでは南北戦争が終結。不要となった武器の多くが日本へもたらされることとなる。そして明治元年(1868年)、それらを装備した新政府軍の攻撃にさらされる会津若松城の中に最新式のスペンサー銃を手に抗戦する一人の女性がいた。山本八重、後の新島八重である。
    時は遡って幕末、諸外国からの開国要求が高まり、日本国内は開国派、攘夷派などの思想の違いによる分断が起きようとしていた。この時代の転換期に、会津藩の砲術師範の家に生を受けた八重は、藩軍備の洋式化を目指す兄・覚馬や、その友である洋学者・川崎尚之助らの側で、会津そして日本の変化を感じていた。
    幕末の争乱により治安が悪化する京都警護のため藩主・松平容保が京都守護職に指命され、徳川将軍家への忠義を尽くさんと、会津は藩を挙げて倒幕派追討への動きに加わることとなる。それは後にいわれる「会津の悲劇」の序章であった。
    京都編[編集]
    1868年9月22日、会津戦争終結。 戊辰戦争に敗れた会津藩は「逆賊」と世間に罵られる中、八重と会津の仲間たちは新たな生き方を模索。 家名再興を許された旧会津藩は極寒の地に斗南藩をたて、飢えや財政に苦しみながらも山川浩を中心に果敢に生きて行く。 八重とその家族は兄・覚馬の生存を知り、覚馬を頼って京都へ渡り、そこで鉄砲に変わる「学問」という新たな生きがいを得る。
    幕末の動乱で尚之助との別れを体験した八重だが、アメリカ帰りの新島襄と出会い、心を開き結婚。キリスト教に根ざした学校を作ろうとするも、偏見を持つ人々の反発に遭い葛藤する襄を支えたのが「ならぬことはならぬ」の精神を持った八重。従来の会津の教えを「良いものは良い」と発想を転換、肯定的に捉えて邁進し同志社英学校の開校にもこぎつける。その後も、二人の夢は同志社大学設立へと向かうのである。
    「ジョー」「八重さん」と呼び合うこの風変わりな夫婦が、明治という新たな時代を駆け抜けて行く。

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